彼の危険なパンドラの箱
会社勤めの梓乃は同僚に片思いをしていた。彼が結婚すると知り、馴染みの店でマスターに失恋した話をする。帰ろうとしたそのとき、店のバーテンダーである鹿目という男に新作のカクテルの試飲を頼まれた。それを飲んだ梓乃の意識は遠のいていき、気づいたときには見慣れない部屋で鹿目に組み敷かれていた──。
人は誰でも恋をする。
恋をするけど報われない。
とくに俺みたいなゲイは。
仕事帰り、俺はいつもの店に顔を出した。
「はああぁぁぁ」
酒をあおり、カウンターで大きなため息をつく。
「しぃちゃん、今日はどうしたの? まさかフラれた?」
「んー…そうみたい」
「そうみたいって…。告ったの?」
「そんなわけないだろ」
ここはゲイバーで、彼はマスター。
俺の恋愛事情を唯一話すことができる空間。
職場と違って気を遣うこともないし、気が向いたら一夜限りってことも当然ながらある。
俺みたいにノンケを好きになって、大泣きする奴をここでは何人も見てきた。
「珍しく本気でしたもんね。梓乃(しの)さん」
「珍しくって言うな、珍しくって」
「俺に言われるくらいだから相当珍しいですよ」
彼は鹿目(かなめ)くん。
このゲイバーのバーテンダーで、鹿目くんがこの店に勤めてからかれこれ3年の付き合いがある。
「鹿目くんの言う通りだよ。しぃちゃんが色恋沙汰に本気になるなんて初めてなんだから」
「そうだっけー?」
もともとマスターとは高校の先輩後輩の仲で、俺がゲイだってことを知ってる数少ない友人の一人。
まぁ、マスターとは10年来のセフレ関係でもあるけど。
でも恋愛に発展したことがないし、マスターにはれっきとしたパートナーがいる。
それでもセフレ関係は続行中。
なんなら昨夜だってした。
「はぁ…マスター、今夜は?」
「今日は無理。たまには鹿目くんとかどう?」
こそっと静かに話すマスターの言葉に、鹿目くんを視線で追う。
テーブル席の客を対応する彼を横目で見ながら首を左右に振った。
「アイツ、純情そうじゃん。俺には無理」
「うーん…? そうでもないと思うけど」
「どこをどう見たってピュアだろ。つーかゲイじゃねえだろ? ノンケかバイ?」
「いやいや、ガチのゲイ。ってかバリタチ」
「なら絶対にヤダ。あんた以外に組み敷かれるなんて死んでもごめんだ」
グラスを傾けて氷を転がす。
「あんな思い二度としたくねぇし」
「それもそうか。ごめん、しぃちゃん」
「今夜の相手してくれたら許す」
「それはダメ。だからって想い人にフラれてそうそう他の男を食うのはやめなさいよ」
「えー、じゃあ帰ろうかなぁ。明日はそいつに『おめでとう』って言ってやらないといけないし」
「プレゼントは用意したの? やっぱり『ウェディングくま』とか『写真立て』?」
「用意してるよー。無料でたくさん出てくる素敵な『嫌味』」
「ははっ! しぃちゃんらしい」
「それから『好き』って言うつもり。冗談に受け取られてもね」
「そっか。初めて告る相手が婚約したてっていうのも可哀そうだけど」
「うるせー」
空になったグラスのそばにお金を置く。
椅子から降りようと足をのばしたとき、背後から肩を掴まれて椅子に戻された。
振り向けばニッコリ笑顔の鹿目くんがいて、空になったグラスを回収する。
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