コハク色の罪の香り (Page 2)
コト、とコーヒーカップの横に遠慮がちに置かれた皿にハッとしてトオルは顔をあげる。
「これ、今日で処分しちゃうんでよければどうぞ」
皿の上には、バニラの香りがするシフォンケーキに生クリームの布団がかけられていた。
手作りだろうか…とそのケーキをマジマジと見つめるトオルに、慌てた様子で男が言う。
「あっ!よく考えたら困りますよね?家に夕飯用意されてるだろうし…」
男の視線は、トオルの左手薬指の飾りに向いた。
「あ…いえ、いただきます。夕飯は要らないと言ってるので」
「そう…ですか」
安心したように、男は頬を緩ませた。
「今日は、仕事されてないんですね」
カウンターを挟んで向き合いながら男は、いつもトオルが持ってきているタブレット端末が、今日はテーブルに出ていないのを不思議そうにしてそう言った。
「今日は持ち帰りの仕事はないんだ。仕事終わりにここのコーヒーが飲みたくなって。家には『残業で遅くなる』って伝えてるんだけどね」
「店主としては嬉しいお言葉ですけど…、奥様、寂しがったりしないですか?」
「まさか。新婚ならまだしも、もう結婚して15年で中学生の子供もいるし」
トオルの言葉に、男の目がまん丸と見開かれる。
「そうなんですか!?お客さん、まだ30代半ばぐらいかと思ってたんですが…」
「いやいや、今年で41になるよ」
「若く見えますね。それじゃ、26歳で結婚かぁ。僕がこの店のマスターになった歳だ。すごいなぁ」
感慨深そうに言う男は、まだ話を続けたいようで、カウンターをグルリと回ってトオルの隣の椅子に浅く、もたれるように腰かけた。
「マスター…こそ、若くで自分の店を持ってるの、すごいと俺は思うよ」
マスターという単語が言い慣れてなくて、トオルは少し言い淀んだ。それに気づいたのか、男はクスッと笑う。
「いえ。元々祖父がやってた店だったんです。閉店予定だったんですけど、丁度その頃、会社辞めたばかりでニートだったんで、僕が継ぐって言っちゃったんです。なんとかやってきて今年で3年目です」
謙遜気味に男は言うが、引き継いだとはいえ、若くして店の経営をしていくのは並大抵の努力ではないだろうとトオルは思った。
「すごいことだよ。それにコーヒーも美味しい」
クシャリと少年のように男は顔を崩した。
「ありがとうございます。あ、そうだ!お客さんの名前、聞いてもいいですか?」
「イシヤマ、トオルです。」
クセで胸ポケットから取り出した名刺を男は嬉しそうに受け取った。
「トオルさん、ですね。これからもよろしくお願いします」
「マスターの名前は、聞いてもいい?」
「言ってませんでしたね。僕はコハクっていいます。」
上質なコーヒー豆のような、彼の髪の色のような、綺麗な名前だと思った。
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