泡沫(うたかた)のたわむれ

・作

「人魚に食われるから海には近づくな」と言われ育ったノア。大人になってふらりと夜の海にやってきたノアはそこで男の人魚に出会ってしまう。食われるとおびえるノアに人魚のマリクは笑う。潮風と波音のなかで、一夜限りの官能の夜が始まるのだった――

『この海には人魚が出るんだ。
人魚は人の肉が好物なんだ。
いいかいノア、海には近づいてはダメだよ…』

それは、幼い頃に祖父から強く言われていたことで。
だから僕は、海のすぐ側に住んでいながら海を知らずに育った。
大人になり、生まれ育った村から出て初めて、海を知った。

そして、人魚の肉を食べると不老不死になれるという、祖父とは正反対の言い伝えが世界では一般的なことも――

*****

シャク…シャクと、歩くたびに僕に踏まれる砂が鳴く。寄せて返す波音と、はるか沖のほうからかすかに聞こえる船の汽笛の音。夜の海独特の空気と潮風が不気味でもあり、どこか心が落ち着くようなそんな不思議な気分だった。

と、数メートル先。
街灯もない海岸では、月明かりとそれを反射した水面の光ぐらいでしか認識できないけれど、波打ち際にずんぐりとしたナニかが打ち上げられている。
肉眼でもうっすらと確認できたそれの1部は尾ビレのようで、ゆうに1メートルぐらいはありそうだった。

真っ暗な夜の海に1人。打ち上げられている大型の魚。

それは、僕の恐怖心をあおるのにはじゅうぶんな条件だった。
祖父に言われていたことが頭をよぎる。
それでも好奇心には勝てなくて、その物体のほうへと僕は歩をすすめた。

「あ…」

ソレの全体像が確認できたとき、僕の口から出たのはあまりに間の抜けた声だった。

月明かりに照らされたソレの大きな尾ビレは藍色で、角度によってうろこが虹色に輝いている。
うろこは腰辺りでなくなりそこから上はヒトの形をしていた。

波打ち際に横たわり閉じられた目では、生きているのかもわからなかった。

「あの、大丈夫ですか?」

どうにもほうっておけず、ガッシリとした肩を軽く揺すって声をかけると、パタパタと尾ビレが返事するみたいに動いた。

生きている…

肩の下ぐらいまであるウェーブのかかった銀色の髪が、揺れた。

「んん…」

細い指でゴシゴシと目を擦って、ソレはパチリとまぶたを開く。

コバルトブルーの瞳が僕を見つめてきた。

「ん?人がいる…」

放たれた言葉は、僕でもわかる言語だった。

「キミはこの近くに住んでるのかい?」

白い歯がキラリと覗いて、僕はゴクリとツバを飲んだ。

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