欲望が満たされる日を望んで
アルファの本能を眠らせたまま平穏に生きてきた間宮大翔(まみやひろと)。ある日のアルバイト終わり、室内に漂う強烈な甘い匂いに導かれるまま足を進めると、先輩の赤木清太(あかぎせいた)が休憩室で倒れているのを偶然にも発見する。濃く重く漂う甘い匂い、官能すら読み取れるもだえる姿―そう、彼はオメガでしかも発情期を迎えていた。その姿を目の当たりにした大翔の中でアルファの本能が目覚める…。
診断結果―アルファ。
オレのその結果を知った時、両親は安心と不安が混在した複雑な顔をしていたのをよく覚えている。
オレがアルファと知ってからは不自由ないぜいたくな暮らしをさせてくれた。
好きな食べ物を好きなだけ与え。
やりたい時にやりたいことを好きなだけさせて。
欲しいものを欲しがるだけ買い与え。
しかし、食っても食っても満腹感がない。
眠っても眠っても寝覚めがよかった経験がない。
欲しいものをどれだけ手に入れてもまったく満たされない。
欲望に底が見える日は未だ訪れてなかった。
*****
(腹減った…眠てえ…でもゲームの続きやりてえなあ…小説も読みてえな)
乱れた書籍の整理、戸締り、消灯など。
アルバイト先である書店内の閉店作業を終えた間宮大翔は様々な欲求を抱えていた。
しかし、数あるそれらの優先順位が決定するまで時間は要しなかった。
――ぐるるるっ
無人の店舗内で彼の腹が盛大な音で空腹を知らせる。
(出勤する前に食べたが…やっぱりまた何か食うか)
何を食べて帰ろうか、あるいは何を買って帰ろうか。
空腹を満たしてくれる食品を思い浮かべながら、休憩室兼更衣室へ歩を進めている時だった。
(…何だ、この匂い)
具体的な言葉で現せないが、甘ったるさを確実に含む甘美な匂いが大翔の嗅覚を酷く刺激した。
歩を進めていくほど濃厚になっていくそれに、彼は反射的に眉間へ力を込める。
しかし、大翔を襲う変化はそれだけではなかった。
(…熱いっ…息が苦しい)
体温が急激な上昇、ドクンドクンと乱れる心臓の鼓動。
そして、
(何だよ、これ)
上がり続ける熱と共に奥底から止めどなくせり上がる何かに、大翔は正常な思考も奪われていくのを感じていた。
人生で初めて味わう止められないほどのそれらに、狂ってこのまま頭がおかしくなってしまうのではないだろうか。
とにかく、今は鼻孔へ入り込むこの甘美な匂いからどうにか逃れなければ。
まるで生死の瀬戸際に立たされたような恐怖や危機感を抱きながら、大翔はそれでも漂う匂いに近付いて目的地へ一歩一歩近付く。
(…まだ着かねえのか)
休憩室までの道のりはこんなに長かっただろうか?
かつてない距離感と濃密になっていく香りに苦しみながらも、大翔は遂に目的地へ足を踏み入れた。
「ッ…!」
すると、大翔はまぶたを見開いて一瞬だけ体を硬直させた。
「はぁっ、はぁっ」
眼前に入ったのは彼の先輩である赤木清太が、床でうつ伏せに横たわっている姿だった。
「おい、」
乱れた呼吸をするたび不規則に動く背中へ問いかけると、清太は床に体を預けたまま顔だけ大翔に向けた。
涙で溶けたキャンディーのように揺れる瞳、りんごのように鮮やかに色付いた頬、リップグロスを引いたように艶を持つ厚く真っ赤な唇。
そんな普段の清太からは想像も付かない乱れ姿に、そしてより重厚さを持った甘美な匂いに。
(…ヤバい、何だよコレ)
――今すぐこの男を犯しまくってどうにかしてやりたい
――この男の心身を支配してやりたい
大翔がそんな、狂気じみた高揚を味わったのは生まれて初めてだった。
最近のコメント