角砂糖は要らない
仕事で失敗した完璧主義の蓮は、行きつけのカフェのマスターに愚痴をこぼした。その様子を見たマスターのサービスは、一粒のチョコレート。口にすると体が熱くなり、頭が働かないせいか、素直になれた。そうして蓮は久しぶりに人に甘えることができたのだった。
仕事で失敗した。凡ミスで金額が桁違いになった。こんなこと、初めてだ。
思えば最近は、家と会社の往復しかしていない。
久しぶりにあのカフェが――マスターが、恋しくなった。
*****
「いらっしゃいませ」
低く、穏やかな声に出迎えられる。五十代前半の、清潔感のあるマスターだ。
狭い店内には四席のカウンターと二人がけのテーブルが一つあるだけで、客は俺の他には誰もいない。俺はカウンターの隅に座った。
「お久しぶりですね。またお顔が見られて嬉しいな」
さらりと添えられた言葉が、とても嬉しい。
「…覚えていてくださったんですね」
「ええ。アイスコーヒーを飲んであれほど目を輝かせたのは、あなたくらいですから」
「ああ! あのとき、本当に感動したんですよ。それまで缶コーヒーしか飲んだことなくて」
あれから半年。今日はホットコーヒーを注文した。
シャツを軽くまくったマスターの腕は綺麗な筋が通っていて、しっかりと鍛えられていることがわかる。背筋も凛と伸びていて、短く切りそろえられた白髪は気品を携えていた。
服に隠されたところも綺麗なんだろうな。なんてことを、初めて見たあの日から思っている。
こんなに好きな場所なのに、最近はまったく意識が向かなかった。勤務先は第一志望の職場だし、やりがいも感じている。けれどそれ以上に、自分が疲弊していることも感じていた。
「お疲れのようですね」
「…!」
「話せば楽になるかもしれませんよ。幸い、うちは閑古鳥の鳴く店ですから」
冗談めかして言ったマスターの容力に、負けてみることにした。
「…最近、新しい仕事を任せてもらえたんです。けど俺、評価されてるほど大した人間じゃなくて。もう、緊張してうまく眠れないんです。今日もつまらないミスで大事になっちゃって…」
「それだけ責任感があるということですね。お若いのにしっかりしていらっしゃる」
「そんな…俺なんてほんとは…」
慰めてもらうために弱音を吐くなんてずるい気がして、口をつぐむ。
するとマスターは苦笑して、小皿にチョコレートを出してくれた。
「サービスです。リラックス効果がありますから、どうぞ」
「…すみません、いただきます」
一つ、口に含む。…と、じわり、口の中が熱くなった。
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