金の花、降る、ふる
秋生(あきみ)は仕事の都合で海外へ行った叔父の家に住んでいた。「金木犀が咲くころに訪ねてくる男をもてなす」ことが、住む条件だった。叔父の言葉どおりに訪ねてきた男を迎え入れる秋生は、男に桂花陳酒をふるまう。酒を飲んだことがないという秋生に、男は突然口移しで酒を飲ませてきて…。
「こんばんは」
秋の空に月が輝き始めたとき、低くつややかな声が玄関から聞こえてきた。
とても遠いところから響いているような深みのある声に、僕は背筋が伸びる思いがした。
叔父から言われていた、『金木犀(きんもくせい)が咲くころに訪ねてくる』人がやってきたのだ。
僕は「はい」と答え、玄関を開けた。咲いたばかりの金木犀の香りが、ふわりと漂ってくる。
そこにはすらりとした和服姿の男性が立っていた。
*****
叔父の家は町の中心から少し離れた、静かな場所にある。
家はこぢんまりとした造りでそれほど新しくはないが清潔感があり、殺風景で小さな庭には金木犀が植えられていた。
大学3年生になり通う校舎が変わった僕は、学校に近い場所で住むところを探していた。
そんなときに、仕事の都合で海外へ行くことになった叔父から「うちでよければ住んでもらえないか」と言われたのだ。
この家に住むにあたり叔父から出された条件は、ひとつ。
金木犀が咲くころに訪ねてくる男をきちんと迎え入れて、桂花陳酒(けいかちんしゅ)をふるまうこと。
『金木犀が咲くころ』というざっくりとした言い方と、初めて耳にした『桂花陳酒』という単語に戸惑いはしたけれど、学生の身としては家賃負担がないことは魅力的だった。
だから、ふたつ返事で引き受けたのだ。
『桂花陳酒』、つまり金木犀のお酒。
叔父は庭に咲く金木犀で、毎年お酒を作っていたのだ。
金木犀でお酒を作ることも条件の中に入っていて、叔父は丁寧なレシピを残していってくれた。
「…叔父さん、お酒を飲むんだ。そういう感じに見えなかったな」
叔父が作った金木犀のお酒は1年の時を経て、琥珀色(こはくいろ)になっていた。
アルコールは全く飲めないので、このお酒を味わうことができない。
だから、訪ねてくる男がどんなふうに味わうのか知りたくて、僕は一風変わったこの条件を楽しむことにしたのだ。
*****
今年も参りました、と言ってほほ笑む男を、僕は家に招き入れた。叔父から言われたとおり、金木犀のお酒を出した。
切子細工が施された小さなグラスにお酒を注ぐ。とろりとした甘い花の香りが広がった。
「あの…、叔父じゃなくてすみません。でも、叔父から話は聞いていますので」
僕はなるたけ明るく言った。
「晴海(はるみ)から話は聞いている、と?」
「はい」
男は一瞬、お酒が注がれたグラスに視線を落とした。
「晴海はしばらく戻らないようですね」
「はい。最低でも3、4年は向こうにいると聞かされました。叔父が留守のあいだは僕が桂花陳酒を作ります。…叔父のようにうまくいくか、ちょっと心配ですけど…」
目の前でお酒を口にする男の目が笑っていた。
お酒の色を映したような、深い琥珀色の瞳を持つ切れ長の目、すっと通った鼻筋に薄い唇。和服姿と相まって、まるで歌舞伎役者のような雰囲気をまとっている。
「きみ…、名前は?」
「秋生(あきみ)です。えっと…、秋に生まれる、と書きます」
「そう。よい名です…。秋生くんはこの酒を飲んだことはありますか?」
「いいえ! お酒は飲めないんです…」
そう、と男の目がすっと細められ、お酒を口に含んだ。
「…え?」
何を、と問う間もなかった。
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