いざないの合図はいつでも甘い
大切な商談の朝、江藤朔(えとうはじめ)は一緒に暮らす会社の先輩の優希(ゆき)を怒らせてしまう。理由は自分の寝起きにあると自覚している朔は優希と仲直りがしたい。会社の休憩所にいた優希にコーヒーを買おうとすると、普段は飲まないカフェオレをリクエストされた。それは朔と優希だけの秘密の合図だった…。
「本日はありがとうございました」
重要な得意先との商談がまとまり、俺はてきぱきと後片付けをして会議室を出た。
午後3時を過ぎている…、この時間なら優希(ゆき)は2階の休憩所にいるはずだ。
エレベーターを待つのももどかしい。俺は階段を使って6階から2階を目指した。
自販機がずらりと並んだ休憩所のいちばん奥のシートに、見慣れたグレーのスーツが見えた。
「ゆ…、沢渡(さわたり)さん…」
弾む息を抑える。俺の声は届いているはずなのに、グレーのスーツは全く動かない。
「あの…、資料をいろいろと揃(そろ)えてくれて…、今日はありがとうございました。それから、すみませんでしたっ」
「…やめろよ、大げさだ」
頭をがばっと下げると、男にしては少し高めの細い声が聞こえた。
俺はそろりと顔を上げる。
きついまなざしを向けられ、俺はもう一度「ごめんなさい」と謝った。
「商談はうまくいった?」
「はい。沢渡さんが作ってくれた資料にすごく助けられました」
「俺は資料をまとめただけ。それを生かすことができたのは江藤の力だ」
こともなげに言われて、俺は返す言葉が見つからない。
「それで? すみません、というのは何に対して?」
俺は、きた、と思った。
「今朝の…、俺の寝起きの態度です…」
優希は、横に立つ俺に視線を向けた。上目遣いかつ流し目でちらりと見られて、俺の心臓は跳ね上がる。
「あ、あの…、あっ! コーヒー、おごりますっ!」
どんなに見慣れていても、優希の視線にはどぎまぎしてしまう。
俺はロボットのような動きで自販機へ向かった。
「いつものブラックでいいですか?」
「カフェオレにして。砂糖、ミルク多めで」
自販機に小銭を入れる手が止まってしまった。だって、ひさびさに聞いたそのカフェオレは合図だったから。
とくとくと走り始めた胸の音を聞きながら優希を見つめる。優希の白い頬がうっすらと赤い。
「何見てるんだよ。仲直りは必要だろ…」
「はい…」
俺は素直に頷く。優希の頬がちょっとだけゆるんだ。
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